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2005-06-19

『9日目』または「神は強情に不在しつづけ」

独映画祭最終日、V.シュレンドルフ監督作品『9日目』。
結局これを含めて3作品しか観られなかったのですが、個人的にはこの一作だけでも十分というくらい価値ある作品でした。
ああこれよ、私がこの映画祭に求めていたのは。シンプルな筋書きに的確な脚本、必要最小限の登場人物と研澄まされた演技、哲学と詩情が同居する映像表現!
本当はもう2、3回見て、肚に落としてから書きたかったのですが、もう当分観る機会がなさそうなので現時点で書ける範囲のレビューです。

これは、ナチ政権の下、キリスト教社会には何が起こったか、何をしたか、何をしなかったか、というキリスト教徒(殊に欧州のカトリック)には激痛を伴う問題を扱った作品です。
かいつまんで言えば、当時のヴァチカンは宗教を否定する共産主義の脅威への対抗として、まだ扱い易い(ように見えた)ナチスを承認し、過激な政策を黙認していた。そのため、当時のキリスト教社会は、かたやファシスト政権にのっかった過激なカトリック教徒が異教徒(正教もふくむ)を迫害し、かたや良心と教義に従ってヒトラーに反抗する「まとも」な聖職者や神学者は孤立する、という複雑骨折を起こしていた。
この状況を、数人の登場人物に圧縮したのが本作です。

反逆罪で強制収容所に入れられていたルクセンブルクの神父クレーマーは、9日間の休暇を与えられて帰郷する。そこで言われたのは、当地の司教を説得しナチス側につかせれば、収容所の仲間の聖職者も解放するというもの。
良心と生存の板挟みになって孤立するクレーマー、ナチスに協力して安全を確保したい司教秘書、沈黙する司教、反ナチスの政治活動に向かう兄、とにかく目立ちたくない妹婿、そんな彼らを観察し巧みに利用するナチスの若き少尉。この構図はまさに当時のキリスト教社会そのもので、クレーマーと少尉との間に交わされる信仰や神学、政治をめぐる議論は当時実際に交わされていた論争の縮図でしょう。
しかし、この映画が凄いのは、一見会話劇に見えて、実は映画でしか表現できない事を描いている点です。
クレーマーは少尉と議論をしながら、何故自分が説得役に選ばれたのか疑問に思います。そして少尉がかつて収容所に勤務していたことを知って納得するのです。
その時、今まで交わされていた議論は、実はそれ自体の浅さ、虚しさ、コトバというものの持つ本質的な偽善性を描くためにあったのだということに気付きます。この映画の中心は、クレーマーの夢や幻覚としてしきりに挿入される収容所の光景なんだと。
収容所というものの圧倒的な何かの前には、どんな論争も意味がない。重要なのはただ、「あれ」をどう受け止めるか。

表題のフレーズは、吉原幸子の『冒涜』という詩の終わりから二行目です。
この詩は、『戦場のピアニスト』のホーゼンフェルトの手記を読んで以来、頭についているのですが、今回はもっと強烈にフラッシュバックして来ました。
別れ際、クレーマーは少尉に言います。「君は収容所で何を見たのか」。
「強情に不在しつづけ」る神を見たのではないかと思います。あの時代「神はいない」と多くの人は思ったでしょうが、収容所の神は「強情に不在」している。

結局、ナチスに協力する事なく収容所に戻ったクレーマーの行動の是非について、映画は結論めいたものを出していません。
映画は、戻って来た彼の周りに仲間の聖職者が静かに集まって来るシーンで終わります。その顔は賞賛とも批難ともつかないものです。
詩の最後の行はこう続きます。「わたしは 強情に 愛しつづけた」

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プロフィール

蛹原タオ

Author:蛹原タオ
sanagihara☆yahoo.co.jp
属性:書痴画狂・犬派・虫キチ・不定形生物好き
趣味:映画・演劇・古書漁・動植物観察
好き役者:A.ブロディ、T.クレッチマン、B.D.ハワード、J.イェンチ他
好き作家:稲垣足穂、種村季弘、たむらしげる、手塚治虫
座右の銘:三十六計逃げるにしかず
*06年3月15日以前のログはこちら

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