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2009-11-08

『アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン』、雨と虫のイコノロジー

初観賞から4ヶ月、再観賞から3週間経過して今更という気もしますが、やっと自分の中でまとまりがついてきました。

ともあれ、まずは監督はじめ製作サイドに敬意を表したいと思います。
これだけのメンバーを揃えておきながら、ここまで作家性に徹した、美しくも狂暴な「畸映画」を作ってしまうとは。
普通に「現代アジアが舞台の」「新約聖書を題材にした」「ノンストップサスペンス」で想像される、つまりは流行の神学ミステリー(まあ、例えばイエスとマグダラの血を引くキムラタクヤを巡って次々に事件が! みたいな)を作っておけば、いくらでもファンとマーケットが喜ぶものができたでしょうに。

それではどんな映画なのかというと、大掴みには現代アジアを舞台にしたキリスト受難劇なのですが、旧約聖書的モチーフやら東洋的イメージやら現代的要素やらが組み合わさった細工物のようでもあるし、メタファーに埋め尽くされた中世絵画のようでもあり、ついでに贅沢なミュージックビデオとしても楽しめる。

というわけで、どんなモチーフや細工があったかを、「私にはこう観えた」という一点からのみネタバレを交えて綴っていきます。
なお、どんな贅沢なミュージックビデオかは観ればわかります。痺れるぜ。


本題に入って早々恐縮ですが、一文引用します。この映画を観て以来、しきりに思い出されてならないフレーズです。
「カニバリスムに対する反逆は…(中略)…他者を食べることが孤独を逃れるための唯一の方策であることをやめ、他者によって食べられることが永遠へと至る唯一の途であることをやめる世界を構想し、生み出してゆくであろう」(ジャック・アタリ『カニバリスムの秩序』)
つまり何を言いたいかというと、この映画の重要モチーフはカニバリスムであろうということです。「救済」と「暴力」の極みに現れ、キリスト教が宗教的洗練を尽くして美しく隠蔽してきたものです。
それが直接的には主人公クラインのトラウマという形で描かれ、間接的(つまり宗教的、社会的、性的)には、主要人物のほぼ全員が、様々な形で背負っています。
これを扱うために、ひとまず作中の「キリスト」であるシタオの機能は、「肉体的な苦痛からの救済」に限定されています。『神の痛み』をキャラクタライズしたわけです。いや、ひょっとするとこれはアトサキが逆で、シタオをこのように設定した結果、あのモチーフが浮上してきたのかもしれません。
ともかく、従来のキリストなら最大のツールである「言葉」はほとんどストーリーの枠外に置かれ、シタオは生身をそのまま人々の苦痛に晒すことになった。この徹底はもの凄い。木村氏の子供のような外見とたどたどしい口調が更に効果を上げています。

さて、先にネタバレと言いましたが、この映画の骨格は結構単純です。
巨大製薬企業の御曹司が失踪し、元刑事の私立探偵が調査依頼をうける。
失踪者には他人の傷を自分の身体に引き取るという特殊能力があり、現在は香港の広大な空地でホームレスのように暮らしている。
そこにヤク中の女が転がり込み、青年に癒され、一緒に暮らす。
それを突き止めた彼女の愛人のマフィアが、青年を撃って女を取り戻す。
探偵は瀕死の青年を見つけ、救出して去る。以上。
深夜ドラマやVシネマで、いくらでもありそうな話です。
ただし、ここに二人の「芸術家」が絡んでくる。一人目は、事前にある仕掛けを持ち込むことで、この話を神話的な深みに落とし込み、もう一人は別の細工をすることで日常性の中に押し上げる。
しかも使ったカラクリは二人とも「キリストの磔刑」。一体この間には何が起こったというのでしょうか。

・生首と旅する男
一人の自称「芸術家」がいる。作品の素材にするために多数の人を殺害した彼、ハスフォードは、猟奇殺人犯として追及されていて、殺されるのを待つばかりである。
彼には大作〈キリストの磔刑〉を完成させる悲願があり、それを、彼を追うために思考パターン一切を写し取ってしまった刑事クラインに、トラウマという形で委任する。
このハスフォードは、どうも洗礼者ヨハネを自任しているようです。キリストの出現を預言して王女サロメに首を取られた、あのヨハネです。
そして、クラインに託されたのは、さしあたってはパウロの役回りでしょう。
パウロというと、イエスの死後、迫害者からキリスト教に改心して聖者になったという話が有名ですが、ここで重要なのは、ナザレのイエスのささやかな実在を世界宗教キリスト教に「完成」させた人物としてのパウロです(崇拝と迫害の関係については、後にもっと直接的に描かれています)。ちなみに、パウロの最期も斬首であったらしい。

二年後、ロスで私立探偵になっているクラインのもとに、人探しの依頼が来る。
探すのは、巨大製薬企業トップの御曹司シタオ。依頼人は、マイクとイヤホン越しに指示を出すばかりの「見えざる父」である。
シタオの足跡を追ってミンダナオ島の労働者地区に行ったクラインは、何故かその土地に留まっている前任の老探偵(パウロの目から落ちた鱗のようです)に出会い、シタオがそこで孤児院を作ったり寄付を求めたりしたあげく、地元の有力者に殺害されたという話を聞く。
しかし、その理想主義者の青年は、生き返って香港にいるという情報が入る。
パウロ=クラインの神経がざわつかないはずはありません。
ここから先、シタオの行方を探す旅は、ハスフォードが自分の中に残した何かをめぐる、クラインの内面の旅と同じ意味を持って同時進行していくことになります。

・胃袋と冷蔵庫の中の何か
香港に渡ったクラインは、元同僚のメンジー刑事の協力のもと捜索を開始するものの、シタオとも自分の内面とも向き合うのを恐れてか、核心から逸れるような動きを繰り返す。
このメンジーという人物(痺れるようなハマリ役のショーン・ユー)の役回りが面白く、クラインにとっては協力者であると同時に精神的な逃場でもあるのですが、その逃場であるはずのメンジーが「逆走」するたびにクラインは事件の核心に近づくのです。どうもこの人は、ヨナ書の魚なんじゃないだろうか。神の召命に逆らって逃げた預言者を呑み込み、目的地に連れて行く魚。
メンジーが屋台でクラインに食わせるのは「魚の浮袋」ですが、リリの追跡に失敗した(つまりはシタオに辿り着かなかった)男が入れられる「処刑袋」は、かなり露骨に胃袋を連想させます(ちなみに、処刑人ス・ドンポがこの時着ているシャツは魚柄)。またこれは、過去にクラインが自殺を図ったクッション貼りの病室にも通じるものがある。
要するに聖なるものへの接近には、本来的に、食うか食われるかという緊張関係があるのです。

そのメンジーが刺客に腹部を撃たれて退場してから、クラインの動きは一気に加速する。
わざわざ購入したパソコンとプリンターでシタオの写真を複製し、聞き込みに使う…のはいいのだが、それとは別に、医者から入手したシタオの傷口の写真を複製して繋ぎ、そのどこかで見たような「作品」を部屋中に散乱して、果ては共食共寝に至る。
ここらへん、はっきり言って全編中もっともセクシュアルな匂いがするシーンで(本当にジョシュ・ハートネットはよく演じたと思う)それだけでも不穏ですが、「作品」が徐々に人体を離れ、なんだか曖昧な肉塊を思わせる形になるにつれ、もっとただならぬ気配が漂ってきます。
そして、クラインの記憶から、ハスフォードと交わしたある会話が浮上する。
「冷蔵庫の中を見てみろ」に始まる短い会話は、クラインがハスフォードを追跡するために思考を同調させていたことを考えれば、こんなに恐ろしいものはありません。
「あれを見てどう思った?」「吐いた」「そうではなく、最初にどう思った?」「…お前は遺体を食う」
ここで、期待に震えるような声で、殺人者は訊くのです。「なぜそう思う?」。
果たして、冷蔵庫の中にあったのは何で、クラインがシタオという記号のもとに探しているのは何で、見つけてしまった時に何が起こるのか。

・救済と暴力と復楽園
少し話を巻き戻します。
クラインにとっては幻のように現れては消えるシタオはちゃんと実在しており、底辺の人々の苦痛を引き受けながら、まさに終末まで続くような受苦の日々を送っている。
そこに、リリという麻薬中毒の女が転がり込んでくる。彼女は香港マフィアのボス、ス・ドンポの愛人だが、そんなこととは関係なくシタオは彼女を救い、癒された彼女は一旦愛人の元に戻る。そして、謝礼らしき物を持ってもう一度シタオの小屋を訪ねてきた彼女は、そこで救済行為の実態を見てしまう。
「ゾンビ映画(笑)?」という感想も散見されましたが、まさに貧者の群れが聖者を喰うような光景です。
しかし、彼らはシタオを喰っているように見えますが、同時にシタオに喰われているとも言えるのです。彼らが傷を負い苦しむ弱者である限り、彼らはシタオから離れられないからです。
かくて救済と暴力の裏取引の中で、双方の肉体だけが消費されていく。救済宗教である限り、ここが行き止まりでしょう。
絶妙のタイミングでシタオの「最初の死」の場面がフラッシュバックし、迫害者と信奉者が完全に一致します。
かくて、やっとミンダナオの森林における「復活」の場面が描かれますが、その様子は復活の栄光からは程遠く、「世の光・地の塩」ならぬ雨と虫とともに森から這い出してきたシタオは、彼の身体からはじき出されたウジ虫と同じように弱々しく寄る辺無い存在に見えます。どちらかというと、仏教的な諦観を思わせる表情です(そういえばシタオという名はシッダルタに関係がありそうな気がする)。
それにしても、この場面の美しさは尋常ではありません。まさにアジア的な、循環する生命のイコンという感じ。そして同時に、この場面を何の解決にもしなかった監督の作家としての誠実さにも敬服します。後でまた言いますが、この場面は作中では誰も目撃していないのです。

一方、救済の現場に遭遇したリリは一度は取り乱すものの、自分の意志でそこに留まりシタオを支えようとする。このターニングポイントで、シタオを守るために少なくとも棒おそらくは石で怪我人を殴りつける彼女が、私は大好きです。
そして、明らかにマグダラのマリアとして登場した彼女はだんだんと聖母のイメージを帯び(リリスからリリーへと言うべきか)、シタオとの関係は母子を経て、もっと根源的な、いかなる意味でも喰い合うことのない共生関係に入っていくように見える。
この二人は(少なくとも日本語字幕では)一度も互いの名前を呼んでいないのですが、名前も性もなく直に寄り添うような二人の姿には、悲惨な状況にも関わらず、まるで楽園に戻ったような浄福感があります。
しかし、なんの前触れもなく泣き出すシタオが暗示するように、閉じた楽園は必ず崩壊を迎えることになる。

・原初的双生児と一人の女
ところで、先程から説明もなく登場させているス・ドンポですが、この、周囲には美しい災害のように振る舞いながら実は「リリを愛する男」という以外のアイデンティティを持たない人物は、一体誰なのか。
いろいろ考えましたが、やはり彼は原罪としての性愛や暴力に依存した、人間そのものではないかと思います。
この映画は性愛に関して、悪意とまでは言いませんが、かなり突き放した描き方をしています。
再会したス・ドンポとリリの大仰なラブシーンは、クラインと娼婦との寒々しいやり取りと平行して描かれ(しかも、BGMが思い切り盛り上がったところで切り替わるという意地の悪さ)、メンジーと娼婦(ではないかも知れないが、恋人でもなさそうな女)との芝居がかった情事も、刺客との格闘の最中にフラッシュバックする。
何より、リリは当初いささか滑稽なほどの媚態をシタオに見せますが、シタオはそれに誘われるどころか目を背けることさえなく、ただ物珍しげに眺めているだけ。そしてこの曇りのない眼差しは、終盤、シタオとリリの居場所を突き止めたス・ドンポが、性愛とは全く無関係に寄り添う二人の姿を見た場面での当惑した表情(この表情が抜群に上手い)と、ちょうど表裏をなしています。
だいたい万事においてシタオとドンポは、リリを鏡面にした鏡像のように対照的です。これをカインとアベルと呼んでもいいし、イエスとユダでもいい、要するに、原初の暴力が勃発する「不均衡な双生児」です。
翌朝まで躊躇った後、ス・ドンポはシタオを処刑する。嫉妬といえばそうでしょうが、女をとられたというような話ではありません。
自分と彼女がお互いからは得られなかったものを、シタオは持っている。しかしそれを認めることは、今までの自分を根底から変えることに違いない。希望がもたらす混乱に怯えて希望そのものを壊してしまうのは、人間がずっと繰り返してきたことです。
その弱さをシタオは赦し、赦しそのもののようにリリはドンポの元に戻る。
この展開以降の彼を受難劇中の誰かに当てはめるなら、やはりバラバではないかと思います。罪人でありながら、というより罪人であるゆえに生きなければならない、聖なるものの影。

・祝福か冗談のイコン
クラインはとうとう全ての記憶を取り戻している。ハスフォードを撃ち、その首を切り落とした。それはヨハネの首であり、パウロとしての自分の首でもある。もうこれで足りないものはなくなった。あとはパウロ=クラインがキリスト=シタオを見つけるだけでいい。
…と、ここまで書いて、その後の展開をどう解釈したものか、実は今でも迷っています。いや展開自体は予定調和といってもいいのですが、妙なものが闖入して来た。
それは舞台が香港に移ってからずっと、ハスフォードのカリカチュアのような醗酵した美大生のような人物として画面をうろちょろしていたのですが、最後になって何故かクラインを追い抜き、〈キリストの磔刑〉を完成してしまうのです。茨の冠と金箔で飾った〈いつもの磔刑像〉として。これは祝福か、冗談か?
いったいこいつは誰なのか。我ながら唐突ですが、これはつまり「大衆化」ではないか。あるいは、ちょっと褒め過ぎかもしれないけど「時間」。
それはひょっとすると、タイトルにも関わらず雨が降らなくなってしまった事情に関わっているかもしれない。
ラストに到る前、私は当然、天の雨と地の虫に覆われた復活の場面が繰り返されるものだと思っていました。しかし、よく考えるとそれはまずい。ハスフォードの芸術が完成するだけで、クラインもシタオも脱出できなくなる。
しかし、そこにいたのはキャッチーでリーダブルで、間違いなく綺麗なキリスト像だった。
大衆化した宗教というのは、救済と暴力の(つまりはカニバリスムの)一種の平衡状態みたいなもので、ハスフォードのような人にとっては許し難い妥協でしょう。しかし、そういうミもフタもない現実の中にしか、救いも解放もないのではないか。
それまで誰が来ようと無条件に受け入れていたシタオが、最後に“Who are you?”と訊き、ハスフォードとの同化を引きずっていたクラインが“My name is Kline”と答え、神の視点を思わせる真上からのショットを退場していくのを見て、ああ長い旅だったなあ、と妙な感慨がありました。それまで違う世界をさまよっていた彼らが、やっと現実に着地したのだと。

では、誰も見なかった雨中の復活の場面には何の意味もなかったのか。それは解りませんが、やがてシタオが一人の人間として帰って行くかもしれないアジアの森に、その気配が残っていることには、やはり意味があると私は思っています。

theme : 映画感想
genre : 映画

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プロフィール

蛹原タオ

Author:蛹原タオ
sanagihara☆yahoo.co.jp
属性:書痴画狂・犬派・虫キチ・不定形生物好き
趣味:映画・演劇・古書漁・動植物観察
好き役者:A.ブロディ、T.クレッチマン、B.D.ハワード、J.イェンチ他
好き作家:稲垣足穂、種村季弘、たむらしげる、手塚治虫
座右の銘:三十六計逃げるにしかず
*06年3月15日以前のログはこちら

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